繋がるってなんでしょう

2017年12月18日

どうもどうも

昨日はフリースクールの研修に参加してきました。

そんでみなさんの話聞いてて思ったんですけど、フリースクールの話だったら不登校とされている子に話が寄りがちなんですけど、別に不じゃないわけですから、ただの選択なわけっすから、学校行ってない~ま~いいじゃん~んで何やろっか~なんつってどんどこ先へ進めればいいっすよね、

そんでもってざっくり不登校って枠ぐまれた子の置かれてる立場は社会が作ってんで、無視して自分でやってっちゃえばいいと思うんですけど、むしろ他の生徒たちはその子がいなくなったことで、気が付かなきゃいけないことに気が付けてないって事があるんじゃないかなって思ったんです。

その子が教室から学校からいなくなることで一つ分かろうとできたかもしれない事が無くなってしまったわけで、自分の価値観と結構違う可能性があったり、もしかしたら近いものがあったんだけど自分はそれを表出できなかっただけじゃないのか、とか・・・気が付けたことを気が付けない部分のままに生活しなきゃいけないと思うんです。

ちとややこしい言い方しちゃってますけど、それってやばくないっすか?

だから、例えば学校から弾かれちゃった子がいたとしたら(自分で選択してる子も含め)、その子が損失したものもサポートしなきゃいけないかもしれないけど、本当はそこに残された子達も損失してんじゃないかなって事です。

そこに残された子は、もっと学校の中にいながらも学校に合わない子の話を聞けたかもしれないし、若しくはその子がなんで学校が嫌なんだろうとか、そもそも学校じゃなきゃいけないのかとか考えられたかもしれないんです。

そんでもって別に学校なんつうテーマである必要もなくって、自分と違うってことを分かろうとできたかもしれないってことっす。

だから残された子はセーフなんじゃなくって、残された子もヤバイんじゃないかなって、だって枠に入れてるだけかもしんないわけですからね、多数派なだけで無理解かもしんないわけっすからね、勿論あくまでもですけどね・・・

とにかく気が付けたはずの事を気が付かないまま生活するってのは自分がその身になった時にしか分からないから辛いわけで、そういう事が社会生活で多くある悩みなんだとしたら、もう学生生活や幼少期からそういう無理解に対して考える機会があるんじゃないかなって思うんです。

自分がその身になってみないと分からないという寂しさをどこまで気が付けるかっていうか、どうやってもなくならないとは思うんですけどね、ただ機会としてもっとあったんじゃないかなっていうか、

もっとみんな一緒に誰かの事に親身になれるんじゃないかっていうか、そんなに多数派にいたっていつ自分が少数派になるかも分からないですよ?

つか多数派なんて入ってもしゃ~ないっていうか、それよりもっと気が付かなきゃいけないこと、考えなきゃいけないことってのがあんじゃな~のかな~なんつって、なんつって偉そうに思ったわけです。はい・・・。

だから不登校だとか障害だとか色々おっしゃりますけど、例えば学校にとり残されちゃってるかもしれない子たちはもっと気が付いた方がいいんじゃないかなって思います(勝手に多数派になってる事も含めて)。

そんでもって、そういう子がいるんなら、自分が気が付けていないってことに気が付ける機会かもしれないので(自分では気がつけなかった気持ちとか)、日々そういうことで悩む方が大事じゃないのかな~って思います。

だからそういう子がいてくれたとしたら、その周りの子は気が付ける事があるわけで、その子がいてくれたからって思えるんじゃないかなって思います。

ま~別にそういう機会を学校へ押し付けたいわけじゃなくって、そういう損失をしてんじゃね?って残されてる子達も危機感持った方がいいかもねっていう感じっす。

だから不登校の子がどうかっていうか、その不登校になった学校へ残ってる子もその子がいなくなった事で損失っていうか、変りなくって、むしろ出た方は色々気がつく機会が嫌でもあるけど、むしろそっちは大丈夫なのか?という感じっす。

ま~おじさん誰?って戯言みたいになっちゃいますね。

ま、いっか。

そんでそういう出会いをしたい方 、一緒に出掛けられる機会があるかもしれませんから教えてください。

みなさん色んな機会大切にできたらいいっすよね。

はい

まつお