滞っているけど
どうも松尾です。
なんかもう月一となっていますが、私のブログへのアクセス数を見ると自分への葛藤が強くってしまって(観覧数が著しく低くとも書けるのか)、結果月一というもはや諦めるスレスレなのです。
いやお恥ずかしい
見てくれる人の数に左右されずに気持ちや思いを書くべきですが、本来自分の事を書くのも、誰かについてもまた「いいのだろうか?」となるだけで行き着くのは「ただ書け」って事なんですが、指が重いつうわけです。
梅雨時期で一日雨のつもりが上がったり、今日は流石に一日雨だろうと思いつつも本当に一日雨だとがっかり。
明日の天気は既に決まっていて、どうなるかは分かりようもないので、ただその時の天気に感じるままに〜と気がつけばナチュラリストかお前は!とナチュラルな髭(無精髭)から流れ出る加齢臭を感じる方へ舵を取り直すんです。
わかった気になってしまうな

さ、「何か書いてやれ!」と唸っております。
ちょっと前にネットフリックスで「もう終わりにしよう」を観ました。
前評判を少し見ていたので、最初の謎というかどうなるのだろう?という気分はもう分かっていたのですが、それでも実際に見てみると感じ方があって、捉えられない面白さ?不思議さでした。
でも進むにつれて物悲しい結末というか、これを見て何も感じないという人もいるんじゃない?と言いたくなる、この悲しさを私は共感できるのさって得意げになりたい気持ちでした。
そんな悲しみでマウントをとっても仕方ないわけですが。
見終わって、次の日とかも映画を思い返しては「こうだったんじゃないか?」と共感したい気持ちを巡らせました。
感想というか、こういった感覚は前にも覚えがあって、平井堅の「even if」じゃね?と。
平井堅の「even if」が出た時に激震じゃないけど、その頃まだ若かった周りの友たちは率直に「怖っ」とか「やばっ」ていうような感想でしたが、私は結構いいけどな〜と
ま聴いてみて下さい。

それでこの「もう終わりにしよう」は「even if」なんじゃないかなって。映画の方はもっと入り組んだ体験で詩や曲の方がシンプルですが、主人公の気持ちに対して残るものが似ています。
「もう終わりにしよう」の中でゴミ箱に溜まっているくアイスクリームの山、「even if」の無くなってしまうバーボンとカシスソーダ
「鍵をかけて、時間を止めて、」むしろ体験としては傷ついていて誰のためでもない時間の中でそんな妄想をするのは誠実ささえ感じます(更に世の中に出すし)。
そんなふうに思いました。
あまり語っても仕方ないので「even if」と「もう終わりにしよう」よかったらどうぞ。
松尾