なるものならないもの

2019年06月20日

特にこれと言い切れないんですが、毎日何かに追われているようにも感じています。

誠実さに欠けるような事を自分がしたとして、それを正当化するような自分もいて、振り返って溜息、そんな時もあったりします。

正しさみたいなものだけで測れないものだってあるよな~と憂鬱に朝日に腕組みです。


予定を組む時って不安にもなります。

ちゃんと組めるかな?どのぐらいやれるかな?誰が何処に合うかな?

いろいろあります。

そんでみなさんから希望が集まりだして(希望って書くとなんかいい)、徐々に来月が立体的になってくると少し楽しくなってくるんですよね、

お~と安堵することもあれば、うわ~と残念な気持ちにもなります。

立体的なんて言葉を使いましたけど、そう感じるんで「予定を組む」なんていうのも前向きにしてくれます。


はじめたろうは小さいので予定も工夫が必要で(大きいところも同じでしょうか)、何パターンか広げて眺めたりもします。

つっても1週間くらいで組まなきゃで放置は出来ませんけど、他にもいろいろやりつついい感じに眺めてます。

それで見えているものを組むのは当然なんですけど、見えないものもあると思います。

気が付いていない希望ってのは沢山あるように思います。

組めたと思っているのは自分だけかもしれません、つかきっとそうなんでしょうね。


しかも支援っていう枠組みの中だけでの希望であって、本来の希望はもっと違うかもしれないわけですから、取れているようで取れていないのでは?と思います。

実際にはその中に入ってみないと分からないですし、その時のその人たちにしか感じえないものもあるので、組んでいる所からでは見えないものがほとんどだと思います。

お互いに見えていないものや、お互いに影響しているものってもっとありますよね~って思うんです。

支援っていう枠組みに疑問を抱いている人は働く側にも利用する側にもあるんだと思います。

だから支援の外にも出たい気持ちも分かるっていうか、いや、色んな決まりに逸れちゃいけないのは分かっているんですけど、そういう気持ちですよね、

逆に支援には乗ってたとしても気持ちが逸れていたらやるせないですからね、意味ないっす。


だから他の事は自分たちでやっていくしかないし、そういう狭間で悩んで組んで行動していくしかないのかなと思います。

例えば支援や決まりの中で歯がゆい事があったとして、それを越えて行った人だけが罪なんでしょうか?罪深さなら誰だって持っていて、正しさを盾にして自分の行いに正当性を持つことが決まりを守るメリットだとも思えませんし、正しさの上で上手くやれる人ってだけな気もします。

いつだって怪しさはあって当然で、正しい行いの中にこそ卑しさはあるかもしれないじゃないですか、そこを行ったり来たりしてこそな気がします。


福祉っていう枠組みは素晴らしいものだとは思います。

ただもっといろんな視点を持たなきゃそこから世の中へは伝わりにくいかなって思います。

やれている正しさを捨てたくなる気持ち、分からなくないです。

ま~この文章がなんか正当化しようとしている気もして踏んだり蹴ったりでもありますが・・・

もっと考えていかなきゃなって思います。

正しさの取り合いは避けたいな~

平面的な予定がみんなが動いて立体的になって、いろんな気持ちが立ち上れるように

振り返って気持ちがそれてしまっているような時には声を掛け合いたいもんです。

さ!来月の予定組みます

まつお